現実逃避の副産物

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しょうもない言葉を丁寧にラッピングして送り出す場所

高校受験の試験問題が「私の言語観」を形成するきっかけになった話

ある日、いつものように仕事をしていた。「〜になります」と書こうとして、ふと手が止まった。
暫し逡巡して、「〜でございます」に書き直した。

夜、大量の癖毛に無心でドライヤーの熱風を当てながらそのことを思い出した。「自分は言葉に関して、かなり使い方を意識しているなぁ」と。一体いつからそうだったのだろうか、と。
現在の職業はエンジニアで、技術ブログの執筆をする機会がある。しかし、それより昔から言葉に対しては結構慎重になっていた気がする。
学生で、論文を書いていた頃から?いや、それよりもっと昔だ。そして、遂にその大元を思い出すことができた。
それは、私が高校受験で巡り合ったある試験問題であった。


こんにちは、 宇宙ネコ 改め 他一名 です。
改名した理由は 特にありません 。気まぐれです。きっかけは以下のツイートです。

  

読みはどうしようかなと思い、エセ中国語風に「他 一名(タ イーミン)」とかどうだろうと考えていたのでちょっとGoogle先生に聞いてみました。


▲ 想定と全然違うものが出てきた

どうやら「另一+名詞」で「(名詞とは)別の〜」と言った意味を持つらしく、「个人」は個人(「集団」と対義語をとる言葉)らしいのでちょっとだけニュアンスがずれてしまった?ある個人とは別の人を指しているのか?と混乱してきたのでこの話はこれくらいにしようと思います。呼び方は自由に呼んで頂ければ幸いです。
中国語に造詣が深い方がいらっしゃったら教えて下さい。(社内の中国関連チャンネルに投げたら教えてもらえそうな気もしてきました)

という訳でしれっと改名致しましたが、今後も特に変わることなくブログをやっていこうと思っていますのでどうぞよろしくお願い致します。

言葉に繊細な自分がいる

とりあえず、一旦以下のツイートを見て頂きましょう。

私はかなり、言葉に関しては「繊細」です。つまるところ、「言葉超気にしい」と言った感じでしょうか。
謝罪の言葉を打つたびに一打一打が杭のように掌に食い込み、それから数日間は自分の脳内で反省会が朝会の如く開催され続けます。 ブログとか向いてなさそう?正解です
かつて技術ブログでさえ、書くのが怖くなった時期がありました。
そんな私の「気にしい」が爆発するのは、「言葉の誤用」です。
技術ブログや仕事でのやり取りでは、当たり前ですが言っている内容が齟齬なく伝わりかつ間違ったことを言っていないことが前提となります。
もしかするとそこ以上に気になってしまうもの、それが「言葉の誤用」です。
「この時にこの表現は適しているか?」「この敬語はこの状況下で使うか?」一つ気になるとググりの手が止まらなくなります。できるだけ信憑性のありそうなソースを探したくなるからです。
辞書を買え。 今、私が私自身に言いたくなった感想を記録に残しておきます。

それでも私がインターネットに頼る訳

ただ、そんな感想に一つ反論があるのでそれも記録に残しておきます。
言葉のユースケースって時代によって変わっていくじゃないですか
私がそれをひしひしと感じたのは、「ら抜き言葉」と「肯定の全然」です。
気になって調べてみたところ、Wikipediaに以下のようなページがありました。

まさに自分が気になっていたものがこの「日本語の乱れ」というページにまとめられていました。
そしてここに私が一番言いたかったことも綺麗にまとめられていたので、以下に引用します。

サンキューウィッキ、フォーエバーウィッキ

本来的に言語(ロゴス)とは長い時間をかけて変転・流転するものである。
またある時代で「乱れ」であると見做されたものは、別の時代に於いては廃れたりまた普遍化したりするわけである。
このように言語、言語機序は生成転化する。

このように、今となっては多くの人に受け入れられているものがしばしばあります。その時々で、言葉のスタンダードというものは変化していくのです。
そういったことを調べる時には、やはり便利なのはインターネットです。市井(インターネッツ)の暮らし(流行り)をつまびらかにしてくれます。
私のググり手は、これからも止まることがないでしょう。
程々にしておこうとは思っています。

さて、このような「日本語の乱れ」を私が意識するようになったある出来事があります。
それが冒頭でチラ見せした、「高校受験で巡り合ったある試験問題」だったのです。

出会いは突然に〜私 meet バイト敬語〜

中学三年生の頃、私は受験勉強に明け暮れていました。
地元の塾の選抜クラスに入り、同じようなレベルの高校を目指す仲間と切磋琢磨していたのです。
具体的には、ホワイトボードにボード用のペンを押し付けてインクを流して、乾いたインクを剥がしては「ペンスキン」とのたまい盛り上がったり塾長のデスクにあったマリモを虐めたり入退室チェックに使われるバーコードリーダーにその辺の備品のバーコードを読み取らせたり していました。
一番上のクラスだったはずです。一応。
そんな私でも、流石に受験日が近づいてくる頃には志望校の過去問対策に没頭していました。
第一志望校の過去問を何年分も解き続けていました。
私の第一志望校は、十年近く試験問題の傾向がほとんど変わっていない学校でした。
入学後に何となくその訳を気付いたのですが、基本的には教師の異動がほぼ無い学校だった為試験問題の傾向がほとんど変わらなかったのだろうと思います。
例えば、英語の試験では毎年必ず 日本の伝統行事や日本独自のもの・ことを指定文字数の英作文で説明する と言った英作文問題が出題されていました。「七五三を知らない文化圏の人に、七五三を説明する英文を書きなさい」と言った感じです。
理科だととある在学生が、突飛な着想を得て実験を始めるという強引にも程があるイントロダクションから始まる大問 が存在したりしました。「神経伝達の速度が気になったので同級生たちを動員して手を繋がせる」と言った感じだった気がします。 優しい友達に恵まれたなお前
そんな学校の国語の試験は、例年大問が三つあり、「論説文」「小説文」「古文」が出題されていました。
大体私が過去問に取り組む時は、まずは試験問題全体にざっと目を通し、何となく気分が乗りそうな(すらすら解けそうな)文章から手を付けると言っセオリーでやっていました。

そんなこんなで迎えた試験当日。
一番初めの試験は「国語」でした。
癖の強いチャイムが鳴り(ウェストミンスターの鐘ではなく特殊なメロディが流れる学校でした)、試験問題を大袈裟にバサァ!とめくりました。
画数が多い本名を書く時間も惜しかったのですが、解答用紙にしっかりと名前を書いてから私は問題冊子にざっと目を通しました。

大問が四つありました

声は出さなかったものの、「はぁ!?」となった記憶が未だにあります。
最低でも十年は、三つしか大問なかったやんけ!
(余談ですが、最近も大問三つスタイルのままのようです。なんでや)

その時増えていた一つというのが、「敬語」の問題でした。
とある会話文の中で使われている言葉遣いの中から、間違っているものを見つけ出し訂正すると言った問題でした。
その会話文が確かファミレスで発生する会話で、「バイト敬語」を指摘して修正させる問題だった記憶があります。
「〜になります」を「〜でございます」に訂正するような問題だった気がします。
一時間目の国語が終わり、私はすぐに母親に連絡を入れました。
「大問が四つあって、新たに敬語の問題が増えていた」と。
すぐさま応援に来てくれていた塾長に伝達されたようでした。塾長はすっ飛んで本部校に帰ったらしいです。 そりゃ傾向が変わったら一大事だもんな

そんな高校入試の大事件、忘れられません。今でもここまで鮮明に覚えています。
前の席の子がずっと鼻を啜っていて「めちゃくちゃ煩いな」と思っていたことも覚えています。 偶然にも入学後、結構な早さでその子とは友達になりました。

「言葉への意識」はなるべく内に

これが、私が初めて言葉遣いを明確に意識した最初の出来事だったと思います。
それ以前から文章を書くことが大好きな子どもではありました。でも、ここまではっきりと意識はしていなかったと思います。

ここまで話した「誤用」以外にも、私が日常的に意識していることをまとめてみました。

  • 三点リーダー(…)」は二つ連続で使う
  • 「〜こと(事)」はなるべくひらがなにして、濫用しない
  • (特に技術ブログで)日常であまり見る機会のない漢字はひらがなにする
    • 「殆ど」→「ほとんど」
    • 「暫く」→「しばらく」
  • 文体を統一する(論文はほぼ絶対)
    • わざと崩す時はある(説明文は敬体、会話に近い感情的な地の文は常体にしたり)
  • 漢数字・アラビア数字の統一
    • できるだけ横書きの技術文章ではアラビア数字、縦書きの小説では漢数字
  • 読点を濫用しない
    • 大体一〜二個/文 になるように調整する
  • 同じ表現が連続する時は言い換える
    • 語尾が「〜でした」続きになって違和感を感じた時は崩したりする

もちろん、これらは自分の中でも「マスト!」なルールではありません。時代によって変わるだろうし、上にも書いている通り時と場合によって変化することはあります。句読点の付け方一つでも、時と場合によって変化します。
Twitterを始めたての頃(2010年頃)、ツイートをきちんと句点で締めないと「気持ち悪いな」と思っていた頃があります。
それが今やこうです。

ただ、ある程度ルールを決めておくことで文章が綺麗に、書く時に「今回は数字どっちにしよう……」などと悩まず効率良く書くことができます。
そして、あくまでもこれは自分ルール です。人に押し付けることはしないように意識しています。(特に三点リーダーの使い方とか)

言葉は自由で、流動性なものであると私は思っています。
今は「ら抜き言葉」も「肯定の全然」も違和感が残っていますが、いつかは「全然大丈夫、食べれるよ」と自然と声に出して言っているかもしれません。
でも、その変化こそ言葉の本質のままに生きている感じがします。違和感を感じなくなりそのことに気付いた時、きっと私は新しい感覚を得て楽しくなっていることでしょう。
ちょっとだけそんな未来を考える、そんな五月半ばの休日でした。